さようなら、わが家。ありがとう、泉北ニュータウン!

東京に母を連れてきたため空き家となった大阪の実家を売却。これでもう帰省することもなくなり、一抹の寂しさは否めません。

そこで最後に周囲の写真を撮ったので何枚かアップして記憶に残しておきます。

いまやオールドな「泉北ニュータウン」

帰省はいつも新幹線。なので年数回は「新大阪」を利用していましたが、これからは縁遠くなりそうです。

少し寂しい一方、年末年始に大混雑の新幹線に乗らないで済むのは嬉しいです。

 

そして実家の最寄り駅が「泉ヶ丘」。泉北高速鉄道という運賃の高さが有名だった路線です。「山を切り開いたから」が理由だった記憶があります。

この「泉ヶ丘」まで「新大阪」から約 1時間。帰省のとき、このラスト1時間が長く感じたものです。

 

駅名標はデザインが新しくなっており、懐かしさはまったくありません。

でも、せっかくなので撮影。駅舎はいま改装中で、お店が入るようです。

 

そしてこの駅を中心として開発されたのが「泉北ニュータウン」。

ちょうど 2017年で「まちびらき」から 50年目とのこと。

泉北ニュータウンは高度経済成長期の人口の都市集中により発生した住宅需要に応えるため、居住環境の整った大規模ニュータウンとして計画的に開発されました。 昭和42年(1967)、宮山台のまちびらきを皮切りに、泉ヶ丘地区、栂地区、光明池地区と順次開発が進められました。

すっかり「懐かしのオールドタウン」といった風情です。

 

いまでいう「堺市南区」周辺が泉北ニュータウンになります。

この「南区」という区分に変わったのには、いまだに慣れません。

そこそこ何でもあって便利な「泉ヶ丘」

そんな「泉ヶ丘」に私が住み始めたのが 1973年で小学 4年生。当時は始発駅でしたが直後に「栂・美木多」ができた記憶があります。

そのあと「光明池駅」ができ、いまや「和泉中央駅」もあるようですが、行ったことがないです。

 

「泉ヶ丘」駅周辺には「泉北高島屋」「パンジョ」といった商業施設があり、そこそこ便利でした。

小学生の頃は、お金もなく難波でさえ行くことはほとんどありませんでしたが、子どもの日常生活で困ることは何もありませんでした。

 

いまや駅前には「スターバックス」や「成城石井」もあり、時代を感じます。

 

そして私が社会人となって東京に移ったあと、1999年にできたのが「ビッグバン」という施設。

 

橋下さんが知事の頃、すったもんだがありましたが存続しているようです。

その橋下さんの頃、なくなる前に!と一度だけ入場した記憶がありますが「なるほど…」という感じでした。

もはや、あまり記憶のない「若松台小学校」

せっかくなので通っていた「若松台小学校」に行ってきました。サイトがあるのですね。児童数はかなり減っている様子。

 

見事なまでに記憶がなく、懐かしいとは感じませんでした。

小学校4年の途中から転入して、6年の途中で岡山に転出したので、節目の思い出もありません。

 

かろうじて入口前の風景には少し記憶があるような、ないような…。

同級生の名前とかも、ほとんど思い出せません。申し訳ない。

 

小学校自体より通っていた道のほうが、わずかに覚えています。

 

現在は人通りが少ないので、通学路は住宅街の中を抜けるルートに変更されているそうです。

 

緑は一杯ですが、確かに人通りがなさすぎ。でもまあ、昔からなかったけど。

なんだか妙に懐かしい「はにわ広場」

少し足を伸ばして周囲の公園にもいってみました。

 

大蓮池は野鳥がいっぱい。

 

「自然がいっぱい」というのは確かです。

 

「はにわ広場」。この響きは妙に懐かしいです。

 

ポツンと年季の入った「はにわ」の像が寂しげ。

土器を展示していた施設も閉館していました。

さよなら、わが家。いままでありがとう!

鍵を引き渡す前に、最後にもう一度だけ「わが家」に立ち寄りました。14階建ての建物は入居当時は驚いたものです。

 

住んでいたのは上層階だったのでエレベーターは懐かしいです。

 

玄関前の風景。夏には PL の花火が見られたのを思い出します。

 

まだ表札は父の名前のまま。今日でお別れです。

 

すっかり片付いた家の中。いままでありがとう。

 

荷物がないと、結構、広く感じます。

 

ベランダからの風景もこれで見納め。

 

最後に鍵を閉めて、本当にさようなら。

いままで 44年も、よくぞ頑張ってくれました。ありがとう。

 

これでもう「泉ヶ丘」に来ることもないでしょう。

さようなら、わが家。そして、ありがとう、泉北ニュータウン!